回顧録
「ワタシ」玲月鰊介(れいげつ にしんのすけ)のこの経験がいつか誰かの役に立てば幸いです
意識しないときこそ健康な証。
病気になって初めて気づくありがたさ。
健康だったころは考えもしませんでした。
現在、高血圧が原因と思われる解離性大動脈瘤(かいりせいだいどうみゃくりゅう)の手術後2か月のワタシはそう思います。
“原因と思われる”とは正確な原因が不明だからなのですが…。
主治医の先生からは「かなり前から高血圧でないと、この若さでこれほどひどい症状にはならないのではないか」と言われましたが、ワタシには高血圧の自覚などありませんでした。
小さいころから剣道をしていたおかげで健康には自信があり、病院嫌いも手伝って、健康診断をろくに受けていませんでした。
しかし思い返してみると、幼少期のワタシはあまり丈夫ではなかったようです。
そもそも剣道を始めたきっかけが“体が弱かったから”なので。
ワタシ自身は覚えていませんが、母から聞く限り高熱が出ると決まってひきつけを起していたらしいのです。
いわゆる小児性のひきつけです。
小学校に入学するまでの間、ひきつけを繰り返すこと11回。
母はワタシの脳に障害が残ることを覚悟したそうです。
そのような体質を改善すべく、運動で体を鍛えさせようと父に連れられて武道場に行ったのが剣道を始めたきっかけでした。
それ以来、大きな病気をすることなく少々太り気味だった(?)ことと、剣道でケガをして入院したことを除けばまさに健康そのものでした。
両親に感謝です。
序章
ところが去年の年末ソレは突然訪れました。
夜中2時過ぎ、尋常でない腰の痛みで目覚めます。
幼稚園から剣道をしていたことが原因なのか分かりませんが、椎間板の何番目かの軟骨がつぶれていて痛むことがありました。
それが数年振りに痛み出したのだろうと思い、市販の痛み止めを飲んだところ1時間もすると痛みはなくなり一安心。(←これがマズかった)
その後、数日間これといった痛みもなく実家に帰省。
実家で飼っている犬に餌をやろうとして 立っている状態から中腰に姿勢を変えた瞬間、再び腰に痛みが走って立ち眩みがしました。
しかしそれは年末の痛みと違って一瞬の痛みで、めまいもすぐにおさまったこともあり、たいして気にすることなく(←これもマズかった)部屋に戻り市販の痛み止めを飲んで事なきを得た…はずでした。
翌日 犬の散歩に行ったついでに近くのコンビニに寄り、家に帰る途中に異変に気づきます。
「あれ?なんだ? 息切れ? 」と。
ワタシの実家は高台にあり、坂や階段がとても多いのですが、コンビニから実家まで徒歩で10分も歩けば余裕で着く距離。
しかし階段の途中で呼吸が苦しくなります。
階段といってもたかだか2、30段程度。
運動不足と考えられなくもありませんが、1週間前まで週に4、5日 4キロのランニングをしていたので運動不足ではないでしょう。
「普段走るのが平地で、階段は疲れるのかな」と楽観的に考えたのがよろしくなかったのかもしれません。
時が過ぎれば腰の痛みも息切れも良くなると思いきや体調は悪化。
セキ、さらには熱も出て、まるで風邪をひいたような症状が続きます。
帰省した日に父が風邪をひいており、それがうつったのだろうくらいに軽く考えていました。(←これもマズかった?)
実際風邪だったのかもしれませんが、最早それはどうでもいい話です(笑)
ところが、次第に呼吸するのもつらくなり2、3メートル歩くだけでも息切れする始末。
ワタシは病院が嫌いで できれば行きたくない。
まぁ病院が好きだという人はあまりいないでしょうが…
この症状がパートナーにバレると、絶対に病院に行けと言われるのは容易に予想できます。
だから体調不良のことは話さずにいましたが、ここまでくるとさすがに隠し通すこともできず予想通りの一言。
「病院に行きなさい」
運命の日
あいにくその日は日曜日で病院は休みのところが多く、タクシーに乗って最寄りの保健所に休日診療を受けに。
聴診器で心音を確認した医師から告げられた気になる結果は…
「別に問題はなさそうです」
《良かった》と思ったのも束の間、続けて医師から「ここには何の設備もなくレントゲンも撮れないので、明日にでも近くの心臓専門の病院に行ってください」とのこと…。
ひとまず問題ないのなら…と自宅に帰りましたが、事態は一変します。
同日午後7時頃 晩御飯を食べようとするも食欲がない。
パウチタイプのゼリーで済ませようと一口食べた瞬間、左手が親指から順に人差し指、中指、薬指、小指と握り込むように勝手に折れ曲がっていき、そのままの形で手首も折れ曲がる。
何が起きたのか理解出来ないうちに呼吸が苦しくなり、その場に倒れこんでしまいました。
苦しさは次第に増すものの何とか意識はあり、パートナーが必死で救急車を呼ぶ電話の声とテレビから無駄に聞こえるバラエティー番組の音だけが今でも妙に記憶に残っています。
その後 意識が朦朧としはじめ、呼吸がより苦しくなって「もう呼吸できない。無理…」と弱音を吐いたことは覚えています。
身の危険が迫ると時間が長く感じられると言いますが、全くその通りでした。
聞く話によると 救急隊員が来てくれるまでの時間は15分程度らしいのですが、ワタシには恐ろしく長く感じられました。
駆け付けた救急隊員の方に上体を起こしてもらうと呼吸が楽になったので、別に批判するつもりはなかったのですが「電話してから到着まで随分時間がかかるんですね」と感じたままを言いました。
後で冷静になって考えると、かなり早く来てくれたほうなのでしょう。
救急隊員さんありがとうございます。
そしてすみませんでした…。
ここで命が絶えていれば、「電話してから到着まで随分時間がかかるんですね」がワタシの最後の言葉になっていたのかもしれません。
‟ある意味”伝説の一言でしょうが、本人にはコレが最期の一言かもしれないという認識はないんだから仕方ないでしょ?(笑)
とりあえずストレッチャーに乗せられて意識を失うことなく搬送先の病院まで耐えることができました。
病院に着いてから長い時間 あれやこれやと検査をしていたような気がします。
ワタシとしては病院での措置のおかげで意識もはっきりして、上体を起こされた態勢で呼吸が少し楽になったので《もう大丈夫だろう》と思い、家に帰るつもりでした。
しかし医師はワタシをストレッチャーから降ろしてくれませんでした。
〈病院から緊急で呼び出された主治医の先生がワタシの家族に言った話〉
「本人さんは一見大丈夫そうでしたが、呼び出しの際に聞いたデータから考えれば、いつ心臓が止まってもおかしくない状態でした。自分が病院に着いた時には手遅れだろうというのも頭をよぎりました。生きていたのが今でも不思議なくらいです」
“心臓にどれだけ負担がかかっているかを表す数値”は標準が100程度のところ当時のワタシの数値は25,000!
通常の250倍の数値です。
あの赤いモビルスーツでも通常の3倍なのに!
ついでに血圧も200を超えていたそうです。
境界
緊急搬送されたときに彼女も一緒に救急車に乗り込んだはずでした。
どこに行ったのかと思っていた矢先、緊急治療室の扉が開いて彼女の姿が見えました。
そしてその横には彼女から連絡を受けて駆け付けた妹と義弟の姿も。
ストレッチャーに乗せられているワタシに彼女と妹、義弟がなにか声を掛けてきたと思うのですが、全く覚えていません。ただ「全然余裕」と答えたことだけは覚えています。
主治医の先生からは病状の説明もなく即入院をすすめられ、ストレッチャーに乗せられて向かった先は一般病棟ではなくICU(集中治療室)。
ここからの記憶はあいまいで、ICUに入ってしばらくすると自宅で倒れたときの謎の発作(左手の親指から小指にかけて勝手に握り込んでいく)が起きてしまい、その時は意識を失ってしまいました。
彼女や妹、義弟から聞いた話ではワタシは死にかけたらしいです。
気を失ったワタシはICUから検査のために別の部屋に運ばれたようですが、そのときに彼女、妹、義弟は主治医から「最期かもしれないので声をかけてあげてください」と言われたそうです。
妹は最期の声かけと言われても「頑張れ」も何か違うし、「今までありがとう」は不吉だし、「何と声をかければいいのかわからず結局何も声をかけられなかった」とワタシが退院するときに言っていました。
検査を終え、検査前まで異常に鳴っていたはずの心電図の音もない。
静まり帰った廊下をピクリとも動かずに運ばれてきたワタシを見た3人は「終わった」と思ったそうです(苦笑)
そんなことになっていたとは知らないワタシはその数時間後に目覚め、その場にいるはずがない母親の姿を見て尋常じゃなく驚きました。
母親の姿を見た瞬間に急激に血圧が上ったらしく、妹がワタシの血圧安定を阻害するという理由で母親を早々にICUから追い出したらしく、退院してしばらくは笑い話として聞かされていました。
素人が考える主治医に聞いた「こういうものなんだろう」医学用語(個人の感想です)
大動脈解離(乖離)
心臓から出ている人間のメインともいえる血管=大動脈が裂ける症状。
裂けるときに薬を使っても我慢できないほどの激しい痛みをともない、そのまま緊急手術という流れが普通らしい。
ちなみに大動脈は三層構造になっているそうですよ。
解離性大動脈瘤
三層構造となっている大動脈の一番内側の層が裂け、中間の層に血がたまって瘤(こぶ)になる症状。
個人差はあるものコブ5.5cmを超えてくると危ないらしい。
本日の教訓
痛くなったらすぐ検査
最後まで読んでいただき ありがとうございました
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